南予医学雑誌 第15巻
120/132

南予医誌 Vol.15 No. 1 2014-118-相扶共済が誕生している。幸いにも戦後日本は国民の努力で急速な発展をとげ,高度成長期を経て「もはや戦後ではない」という言葉があったように豊かな国となった。宇和島病院の誕生 市立宇和島病院誕生の経緯を宇和島市誌(上巻)にみると,1906年頃北宇和郡医師会が治療費及び薬の現金取引制と値上げを行ったことから住民に不満と反感が生じ,公立病院設置の要望が起こった。そのため,北宇和郡長も郡立病院の設立を計画,北宇和郡会に諮り賛同を得ている。これに対して中原宇和島町長(市制施行は1921年8月1日)は,1908年8月29日に緊急町議会を招集して郡立病院を宇和島町に設置するため,宇和島町の負担金と病院敷地と建物の供用の申し入れを北宇和郡会に請願することを提案し,宇和島町会はこの提案を可決している。これに対して北宇和郡会の「郡単独の病院運営は容易ではない。むしろ郡が宇和島町立病院を援助したほうが適切である」との判断もあり,宇和島町立病院建設の議が固まり,1908年10月13日の緊急町議会で町立病院設置委員会委員7名が選出され,具体的な病院建設がスタートしている。病院建設の敷地について,1909年7月13日の町会が堀端通1番地の1 松根源六邸ほかの買収を承認している。現在,病院北棟前のバス停留所横に今回の改築で唯一もとのまま残っているのが「松根邸跡」の記念碑である。その後病院は完成を待たず広小路に仮病院を設置,1910年9月1日に町立宇和島病院として京都帝国大学から田上嘉蔵院長を迎え内科,外科,産婦人科,眼科,耳鼻咽喉科の5科,医師6名で診療を開始している。その後1921年8月の市制施行に伴い市立宇和島病院となり,さらに2005年8月1日の合併で新たな宇和島市が誕生し,それに伴い新たな市立宇和島病院となり今日に至っている。宇和島病院の運営 宇和島病院は,設立当初から公立病院として「住民医療奉仕」の理念のもとで医療を行ってきた。その結果,四国西南地域に他の公立病院がなかったため,必然的に宇和島圏域に止まらず,四国西南地域の医療を担う基幹病院として整備を行いながら今日に至っている。しかし,その間早くも1912年には北宇和郡からの補助金が打ち切られ,やむなく診療費の値上げを行わざるを得ない等病院運営は困難の連続であった。1929年の経済恐慌後には財政緊縮政策を断行,病院の存続を図っている。さらに,1945年7月12日には米軍の焼夷弾で本館が全焼する不幸に見舞われたが,先人は直ちに大石町に仮診療所を設置,伊吹町,来村に診療出張所を開設し診療を続ける等地域住民の要望に応えるため並々ならぬ決意で歴史を築いてきた。 戦後の病院運営をみても,1948年には,戦後の食料不足による栄養状態の悪さや治療薬のない当時,最大の感染症であった結核患者の増加に対応するため,一般病床44,結核病床76で再出発した。1963年の本館改築では,一般病床330,結核病床120にみるように,時代の要望に応える病床編成を行いながら地域住民の信頼を得て実績を積み重ね,四国西南地域の総合病院としての整備を続けた。1991年4月には,結核患者を当時の国立療養所愛媛南病院に集約することになり,結核病棟を廃止して

元のページ  ../index.html#120

このブックを見る