南予医学雑誌 第13巻 第1号
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竹林:なんよだより南予医誌 Vol.13 No. 1 2012-75-が,少し無理をさせてもらった。ある程度仕事が理解できたころ臨床化学分析談話会に参加した。信州蓼科の慶応大学施設で3日間,朝,昼,晩と一日中勉強した。大学,大病院,研究所,大手機器メーカーの技術者等が集まっていた。これから臨床化学検査は変わっていくぞと言う熱い空気に包まれていた。その翌年広島で開催された中・四国臨床検査学会の臨床化学検査シンポジュームでは「酵素測定の現状と問題点」と言うテーマが取り上げられ,シンポジストとしてCPK測定について発表した。この事は,その後20年余り臨床化学検査をずっと担当する基礎となった。若輩者を指名された愛大付属病院技師長(のち国立循環器病センター技師長)に感謝したい。 その後の臨床化学検査の自動化・システム化は目を見張るものがある。当院の検査科で主なものを見てみると,まずアボット社(現ダイナボット社)のABA100から始まる。1項目ずつ自動測定するタイプで項目ごとに洗浄,試薬交換をした。その後ABA200へバージョンアップされたものを含め3台稼動で対応した。当然検査データはすべて手書きの時代であった。この頃までは検査の保険点数が今では想像出来ないほど高額であり,また出来高払いに近く臨床検査にとっては黄金時代であった。検査科は病院収入に大きく貢献できた時代だった。 昭和56年,島津が初めて発売した自動分析器CL12を購入,検査科にとって本格的な自動化の始まりであった。試薬用冷蔵庫を備えた12項目自動測定が可能なタイプである。これは当時優れものであったが,試薬に強酸,強アルカリが多く使用され,試薬シリンダーが溶けて毎日のメンテナンスが大変だった。 昭和62年,世界的に売れた日立736-20を購入する。電解質を含むほとんどの検査を自動化することが出来た。購入前,電解質検査の電極の安定性に不安もあったが,意外と精度はよかった。他の項目は試薬も酵素法で安定したものになり,短時間のうちに膨大な検査結果が得られた。コンピュ-タも大型化し,精度管理も格段に向上した。 ただ昭和56年頃から検査の包括化,保険点数のまるめが始まり,度重なる医療法改正により検査科は非生産性部門に移行しつつあり,臨床検査も厳しい時代を迎えることになる。 そうした中,今から10数年前,検査科に新しい波がやってきた。それまでは検体検査中心の人員配置で動いてきたが,MRI検査,エコー検査という臨床と直結する分野を検査科で担当してもらいたいというものであった。検体検査の質を落とさず新分野の検査を導入することはかなり大変な事で,検査科始まって以来の大改革である。MRIと心エコーでローテーションの目途が付いた時,自分自身は何が出来るか考え,すでに50歳目前であったが,腹部エコーを立ち上げてみようと決意した。それまで医師だけの分野で検査技師がどれだけやれるか不安であったが,やさしくも厳しい先生達に支えられ数年後には認定超音波士の免許を得て何とか独り立ちできた。新分野についても各担当者が良く頑張り検査技師でもやれるんだと言う一定の評価は得られたと思う。 今バッハの宗教曲を聴きながら過去を静かに振り返る時,先輩技師たちの偉大さを

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