南予医学雑誌 第13巻 第1号
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南予医誌 Vol.13 No. 1 2012-74-た。担当した細菌室は,技師3名,技術員2名と今より充実していた。同室の血清・輸血担当は1名で,細菌室1人がたまに手伝っていた。当時は何でも手作りで,梅毒検査に使う脱繊維血も病院が委託していた農家まで行き,やせ衰えた羊から採血した。培地もほとんど手作りだった。結核病棟が120床あり,患者も多く,チールネルゼン染色,鏡検,培養,耐性検査は細菌室の主要検査だった。 昭和45年に法改正があり,臨床検査技師が誕生する事になる。先輩の皆さんは,長い期間講習会に参加(宇和島でも開催)し,翌年8月に1回目の試験が実施され県下ほとんどの技師が合格した。自分たち同期生は,免許取得の為の指定講習会が大阪であり,10日間缶詰状態で勉強した。翌年国試があり臨床検査技師の免許をもらったが,給料は少し上がったと思うが,仕事に変化はなかった。国立松山病院(現四国がんセンター)の技師長などは,「これからは個人で検査所が開業できる」と準備をしていた。愛媛でも個人の小さな検査所ができたが,あっという間に大手検査センターに吸収されていった。 寝泊りした宮下の病院住宅は築4年くらいでまだ新しかった。1,2階は妻帯者用(医師もいた),3階が独身寮になっていた。手前の3階には,同時に入った京大卒4人の若い内科医師がいた。皆さん非常に個性的で,色々なことを教わった。のちに教授になった人もいる。この頃一番困ったのが休日の食事である。周辺は畑ばかりで食堂や喫茶店はなく,もちろん当時の事,コンビニなど全くなかったのだ。 2年があっという間に過ぎた。4人組の医師も1人ずつ独立して旅立った。自分自身もこれからどうすべきか悩んだが,結局ここで検査技師をやって行く道を選択した。 気分一新3年目からは血液検査を希望した。窓からお城が正面に見える3階にその部屋はあった。出血時間の検査に来る患者さんに「ここは最高の景色ですね。」と,よく言われた。2年間血液検査を担当したが,さすがにメランジュールで採取後,鏡検でカウントする時代は終わっていて,半自動の血球カウンターがあった。血小板検査は当然用手法で,低速遠心後,血小板層をカウントする方法で,本当にバラツク検査だった。 この頃オーディオブームで,医師達は外国製の高価なセットを購入しており,聴きに行くといろんな薀蓄を聞かされた。LPレコード(現在ならCDか)も今のようにネット通販で外国盤を手軽に安く購入できる時代ではなく,一枚買うにも大変な時代だった。その頃,耳鼻科に新しい先生が赴任してきた。前任に比べ優しそうな感じの人で何かと気が合った。ワインが好きでクラシック音楽をよく聴いていたが,自然にその影響を受けた。先生が中古のフォルクスワーゲンを買ってからは車でよく出かけた。春は長崎方面,夏は信州上高地,冬は大山スキー場と近場も含めよく出かけた。後の自分の生きかたを振り返る時,何かにつけ一番大きな感化を受けた人である。現在はずっと勤めた久留米大の耳鼻科教授を退官し,大阪枚方で生活をしておられる。 2年間血液検査を担当した後,まだ自動化される前で今がチャンスと臨床化学検査を希望した。周囲から反対する声もあった

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